キックボクシングのクラスはウォーミングアップの段階から半端なかった。ジョギング、に始まりスクワット、腕立て伏せ、ストレッチ...勢いのみで入会した私は、正直言ってジョギングの時点で後悔大爆進だった。文字通り、私の前を他の生徒でも、先生でもない、後悔の念が走っている。遥か昔、義務教育を受けていた頃のマラソン大会を思い出す。あまり広いとは言えないジムの仲を、大音響の暑苦しい音楽の中グルグルと走りながら、私の思考が昔のイヤな思い出と共にこれまたグルグルと回りだす。後悔の念と共に、汗だか涙だか分からないものが私の頬を伝う。開始5分で私の心は複雑骨折している。ブタが走れないのは周知の事実である。今更私がギブアップしたところで誰も驚くまい。それにしてもどれだけ走るつもりなのか。哀しくなり、バキバキに心が折れて弱気になった後は、無性に腹が立ってきた。前を走る結構ステキな容姿の先生の背中を睨みつけ、「いいかげん、あと1周で終わってくれよ」と念を送るが、彼氏はそんなことおかまいなしで、「Whoooooooo!!!!!」とゴキゲンで走り続ける。ようやくジョギングが終わった頃、私はどんな思いも感じられない程疲れていた。
ジョギングの後も、私を叩きのめすために考えられたとしか思えないような恐怖のメニューは続く。鬼のようなスクワット、腹筋、腕立て伏せ...汗さえかかず、息も乱さずこなしていく先生に憧れと、尊敬と、ちょっぴりの乙女心が柄にもなく顔を出してちょっとニヤけてしまう。「どんだけ運動バカなんだよ」ボソッと呟いたとたんに先生がこちらを向く。キラキラした笑顔をむけて、私にハイタッチをしてくる。「A+!! Great job!!」ヤメてーーー!!優しくしないでー!!そして笑顔を向けないでーー!!ここまで人に対してぎこちないともう漫画である。ストレッチに入る頃には、まさに満身創痍であった。
それは急に起こった。
「はいじゃあ次は目を閉じて首を回して...」先生の声に倣って目を閉じ首を後ろに傾けたとたんに目の前が真っ暗になった。周りが見えなくなったのは、目をとじたからだけではないらしい。生まれて初めて意識が遠のくという経験をした。先ほどの先生の満面の笑みとハイタッチを思い出す。一瞬夢を見ているような気がした。連日の寝不足、急激な運動、そして朝から何も食べていないとなれば当然である。これ以上何が必要というのか。ハッと正気に戻ると同時に色々なことが頭をよぎる。確かに私にとってはハードでも、授業が始まって僅か20分である。ここでブー子の私が初日、面接であんなに暑苦しいことを言ってのけた後にウォーミングアップの時点でぶっ倒れるなんてありえない。ハズカシいにも程がある。ふと気を許すと手許からすり抜けそうになる意識を、手放すもんかと意地と見栄のみでにぎりしめる。ストレッチが終わると先生が各自水を飲むように小休憩をくれた。ヨロヨロと自分のカバンのもとまで這っていき、水を出す手はものの見事に震えていた。
その後は、サンドバッグを引っ張りだしてきて、打撃の練習に入る。「Left jab, left jab, right cross and right round house kick!!」は?である。なんのこっちゃわからない。何度かゆっくりとお手本を示してくれる先生を穴のあくほど見つめるが、それでも私の顔から巨大なハテナマークは消えてくれない。仕方ないので見よう見まねでバッグをどついてみる。「!!」右肩に激痛が走って息が詰まる。右肩を抑えて、口をパクパクしている私を、友人が隣で体を2つに折って笑っている。ようやく笑いの収まった友人が挑戦している時に先生がやってきた。「まずは、速くなくても、強くなくても、自分でリズムをつかみながら距離を置く練習をすること。型なんて、やってるうちについてくるから心配しないで。」親切に、根気よく丁寧に教えてくれる先生を見ていたら、喉の奥が痒くなってきた。いてもたってもいられない気持ちになり、蕁麻疹まで出てきそうである。恋する中学生だってこんな挙動不審にはならないであろう。この歳になって人に免疫がないなんて親の顔が見てみたい。自分の焦りを悟られないように私は構え直すとバッグに向かって思いっきりキックをきめた。
怒濤の、としか言いようがない1時間は、思いのほかあっという間にすぎてしまった。ホッとしたのも束の間、先生が私と友人を事務所に来るように促す。何も言われないうちから怒られるのだと思い込む。人嫌いで目立ったりすることがイヤな性格の割に、中学、高校はずっと生徒会の副会長をしていた。真面目というよりは面倒くさがりで、問題を起こして職員室に呼ばれたことなど一度もなかったが、なんとなくそんな気持ちだ。重い足を引きずって事務所に行くと先生が満面の笑顔で迎えてくれる。私は思わずうつむいてしまう。先生に促されるままに椅子に座ると、初めての授業の感想を聞かれた。友人は、キツかったけど楽しかったと喜々として語っている。次に回ってくるであろう私の番を思って気が重くなる。クラスそのものは良かったけど、何かする度に周りの人にハイタッチをしなければいけないのが苦痛でめんどくさい。なんて言えないよね、さすがに。正直な感想が言えないので私も曖昧に業務用笑顔を顔に貼付けて「Me, too.」右に同じですと大して聞いてもいなかった友人の感想に便乗する。先生は満足そうにうなずくと、今後のことを聞いてきた。グルーポンで買ったパッケージは、10回レッスンである。正規の年会員にならないかと誘われて、ああそうかとやっと納得がいく。気合いが足りないとか、どんくさすぎるとか、愛想がないとか叱られるのかと思ったが、そういうことか。面倒なので説明もろくに聞かないまま入りますというと、驚きながらも嬉しそうに先生は「良かった」と握手を求める。隣で友人が少し戸惑っている。彼女は先生にいくつも質問をしている。それが普通である。質問もせずにこんなにスンナリと入会しますなんて言う人がいたのであろうか。今まで霊感商法に引っかからなかった自分が不思議である。友人と先生のやりとりを傍観して、初めて月謝の額を聞いてびっくりする。「高っ!」想像していた額の倍以上である。正会員は、同じ月謝で月に何度でもクラスに来ることが出来るから、行けばいく程1クラスあたりの値段が安くなる計算であるが、クィーン•オブ•三日坊主の私にはバカ高い月謝である。それも1年契約なので、3日でやめても1年間月謝を払い続けなければならない仕組みになっている。隣の友人はまだ迷っている。私は真剣に後悔している。でもやっぱりやめますなんて言える度胸も、状況でもない。その後、友人は先生にもういくつか質問をした後に入会を決意した。「アリサと2人ならお互い励まし合って通い続けられるよね!」無邪気な笑顔が眩しすぎる。3か坊主になって、彼女にまで迷惑をかけてしまった暁には、責任を持って彼女の月謝も払わなくちゃ...かなり感覚のズレた決意をしながら私と友人はジムを出た。
後日談
「!!!!!!!!!!!!」最初のクラスから3日後の朝、目覚ましを止めようと寝返りを打って手を伸ばそうとすると、カラダ中に電気が走るような激痛を感じて一気に目が覚めた。「私、縛られてる!!」咄嗟に見当違いな思いがめぐり、パニックになる。私が目を覚ましたのをいいことに、ワンコのたっちゃんが私の上に覆い被さってくる。「ギャー!!」あまりの痛みに息が詰まり、愛娘をつきとばす。そこでハッとする。ま、まさか...あれだけハードな運動をしたのに、翌日筋肉痛がなかったのですっかり忘れていたが、3日たってからくるとは...生憎その日はマンハッタンまで出かけなければならない用があり、地下鉄の階段は上りはなんとかなっても、下りの大変なことといったらなかった。一度足を踏み出したら、もう太腿が言うことを聞いてくれない。ガクガクと震えだして止まらないので、下りは一気に駆け下りる...猪突猛進のテキスト例のようである。階段を駆け下りるというよりは転がり落ちながら、私がキックボクシングを始めようと思ったきっかけを思い出す。地下鉄の階段で苦労するようなカラダにうんざりしてたんだよな、確か。キックボクシングを始めたとたんに今度は下り階段を命がけで駆け下りている今の自分の皮肉な状態を、まるで人ごとのように思いながら地下鉄に飛び乗った。
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